悠々と急ぐために・・・

“Festina Lente”

「いい演奏」ってなに?

「いい演奏」と、そうじゃない演奏を区別する境界線というのは、定義として明確化することはとても難しいけれど、アウトプット、つまり結果としての演奏を聴けば、決定的に断言できるというところがなかなかおもしろいなと思う。 

唐突にスミマセン。

先週末、かみさんたちが音大時代の仲間たち(同窓生)と年一回、20年以上も続けているピアノ・コンサートがあった。みなさんの演奏を聴きながら漠然と感じたところがあり、さらにコンサート終了後の打上げの際に内輪で交わした雑談からも少し考えた延長戦、ないしは消化試合として、以下書き連ねます。 

いい演奏かどうかに話を戻すと、こういうことはおそらく、単に演奏に限ったことではなくて、もっと日常的なこと、例えば日々の仕事でも、あるいはもっと俗に人間でも、すべてに当てはまることと見受けられるように思う。

 つまり、

「今日はいい仕事をしたな」

とか、

「あいつはホントにいいヤツだよな」

とかいう風な使われ方をしますが、「いい演奏」も基本的にこれらと同類だと思う。

それは音楽学的に、あるいは美学的見地から、厳密に分析して「いい演奏」かどうかを判断しているわけじゃなくて、われわれは無垢な耳で純粋に聴いて、ほぼ直感的にそう判断しているということでしょう。

 小林秀雄はかつて『「美しい花」は存在するが、「花の美しさ」というものは存在しない』みたいなことをとこかで書いていましたが、これとちょっと似ているかもしれない。

「いい演奏」は実感としてすぐに分かっても、その演奏の「よさ」を定義することはおそらくナンセンス、というか無粋にすらに感じます。

 ところで、「いい仕事」というのは大抵、一生懸命、ヤル気120%で仕上げた仕事のことでしょう。で、これと正反対の「ヤル気のない仕事」というのもこれまたまた明快で、例えば先日も国会から中継されていた「加計学園」をめぐる答弁の類。みなさまの税金を給与に充てているハズの連中がよりにもよって、意味不明の答弁を繰り返す光景をなんと評したらいいか。いい仕事かどうか以前の、レベルの低い話でしょう。

 ――「いい人」というのは通常は「気の弱い人」の意味で使われているが、アイツは本当の意味で「いいヤツ」だった――

これはたしか、ジョージ・ハリスンが亡くなった時にキース・リチャーズが彼を評して放った言葉だったと記憶している(ちょっと怪しい)。当時雑誌(たしか『Switch』)でこれを読んだ際は、「ジョージって本当にいい人だったんだな」と心から思ったものだが、こういう意味での(つまり真の意味での)「いい人」というのはなぜか私の身の周りに多く見受けられるから、これは純粋に神さまに感謝しなければいないなと思います。

で、再び「いい演奏」です。

たらたらと書き連ねましたが、ひと口で言うと「ヤル気のある演奏」のこととなるか。

ヤル気があるかないかについて、われわれは意外に敏感に聴き分けているものと思われる。これはちょうど、たとい初対面でも、あるいはすれ違いざまでも、相手が美人かどうか、イケメンかどうか、瞬時にして見分けているのと似ていないか。

 演奏について言えば、上手いか、下手か、が問題なのではない。いくら上手くても(プロでも)ヤル気のない演奏(惰性で弾いているとか)というのはあちこちで見受けられると思うから。反対に、技術的には劣っていてもヤル気のある演奏というのは見ていてとても気持がいいと感じるものでしょう。いい指揮者は、楽団がプロでもアマチュアでも、必ず楽団員の、特に後ろの方の人たちのヤル気を引き出している。それができるかどうかがつまり、いい指揮者かどうかの境界線だと思う。

上手いか、下手か、が問題なのではない。問題は、本人にいくらヤル気があっても、あるいはヤル気があると思い込んでいても、それが全く空回りしているケースです。見ていて痛々しくすら感じられる。やり方が拙いか、あるいは目指している目標、方向性自体にそもそも問題があるということだと思うが、さてこれをどうしたらいいのか。先ずは自分が今現在処している現実に気付くこと、つまりやり方・方向性が間違っているのだという認識を持たせる必要があるが、果たしてこの気付き、認識を与えるにはどうしたらよいか・・・これはやはり難問でしょうね。

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