悠々と急ぐために・・・

“Festina Lente”

「先ずは発信ありき」と言いますが・・・  「第12回国際コミュニケーションマネジメント研究会」より

 一昨日、「特定非営利活動法人 グローバル・ヒューマン・イノベーション協会」主催の掲題研究会に参加。

http://www.ghia.or.jp/icmp/162.html

  プログラムをご覧のとおり今回は一貫したテーマがないのかと思っていたら、一本ピンと貫くものがありました。コミュニケーションにおける「発信力」についてです。

 日本人につきまとう「プレゼンに弱い」というステレオタイプを突き詰めていくと、いわゆるプレゼンという手段・ツールが弱いというよりも、それ以前に「発信する力そのものが弱い」となるかと思います。裏を返すと、自己、つまり自分の意志や考え、主義主張をどんな手を使ってでもいいから先ず発信することが肝要になるでしょう。 

  二番目に登壇された本名先生(本名信行・青山学院大学名誉教授)は、沖縄県で進められている「英語立県」構想にSWOT分析を実施され、その結果「W=弱み」として、

・未知の分野の開拓:改革とカイゼン→「発信教育」の具体的認識

を抽出されました。具体的な対策として、「発信力増進実行委員会」なる組織の設立を提唱すると同時に、実際の英語教育の現場でも「自分」のことを話す等、「発信」を意識した授業を奨励されていますが、日本が今後進むべきお手本になるようなモデルケースを、沖縄という地で是非実現してほしいものと思います。 

 もうひとつ興味深かったのが、荒川先生(荒川洋平・東京外国語大学教授)のお話にあった「英和辞書事件?」で、これは斬新の域を飛び越えて意表を突かれました。日本人が英語を始めて習う場合に買う辞書というのは、普通は先ず「英和辞書」ですよね。一緒に「和英辞書」を用意することはあるにしても、それは「英和」がある前提でのことでしょう。ところがですね、例えば英国で始めて日本語を学ぶ際に買う辞書は「和英」ではなく「英和」だそうです。なぜなら「自分が言いたいことを言うために先ず必要なツールだから」とのこと。なるほど確かに・・・ではありますが、日本人の発想ではなかなかこうはならないのではないでしょうか。

 話がいきなり飛びますが、日曜日だった昨日、妻の元生徒(妻=ピアノの教師です)が2人、久し振りに拙宅に遊びに来ました。一人はバルセロナに住んで6年目になる女性であり、もう一人はJICAの派遣でパラグアイ2年間滞在して昨年帰国した男性。どちらもスペイン語圏だというので、私のキューバ人の友人(アレックスといいます)にも声を掛けたところ、日本人の奥さんを連れて(ついでにフランスワインも携えて)やってきました。そこでこの話を披露したところ、日本人たちからは「ホーッ」と声が上がったのですが、キューバ人は「それは当り前の話や。自分の言いたいことが言えなくてどうするね」みたいな反応でした。

 なかなか深いですね・・・。この話はコミュニケーション論に止まらず、比較文化論、乃至は日本人論にもつながるかと思います。

 話が飛んで私の経験論になりますが、例えば仕事で上海に赴任し、ローカルスタッフなんかと接していてて驚くことは、まあ「夜空に輝く星の如し」で多々ありますが、5時になると仕事が残っていようがいまいがスッといなくなる(帰宅してしまう)ローカルスタッフとそれに驚く(呆れる)日本人、というのがよく見る光景です。ではさて、これを世界的視野からみた場合、「決まりは決まりだから仕事が残っていようがいまいが時間が来ればさっさと帰る方がグローバルスタンダードだ」なのか、それとも、「仕事が残っている以上は黙って残業をするのがプロの仕事人だ」なのか。私見では前者が世界のマジョリティーだと思います。少なくともそういう目を持ってローカル人材と接しマネジメントしていかないと、特に日本人が海外で勝つことは厳しいと思いますね。

 「先ずは発信ありき」という発想も似たところがある。荒川先生はお話の中で、大村益次郎や「蕃書調所」まで遡ってお話をされていましたが、おそらくその頃から早くも、日本人は外国語といえば先ず調べる対象だったのでしょう。彼我に圧倒的な文化的格差があり、その格差を如何に迅速に埋めるか(つまり西洋に追いつくこと)が喫緊の課題だった当時であれば、これはまあ仕方のないことと想像がつきます。「発信すべき自己」というのはナンセンスですから。ただし、幕末当時の時代背景と、グローバル化真っ只中の現在の世の中を同列で考えていては、日本の生き残りも先ず危機的状態に陥るでしょう。

 それからもう一つ感じたことは、「先ずは発信ありき」と言うからには、前提として「発信すべき自己」がないと成り立たないということ。これは教育面からみれば、いわゆるリベラル・アーツが有効でしょうし、文科省は全く無関心かもしれませんが、日本の伝統芸能、例えば文楽や歌舞伎、書や美術、あるいは武道でもいいから、どれか一項目をみっちり教え込むというのも「発信すべき自己」を養う上で大変効力があると思うのですが・・・これはちょっと空想論に過ぎるかしら? 

文科省は目下、リベラル・アーツ、特に文系にも全く無関心というか冷酷のように見えますけど。)

 一昨日の研究会に話を戻すと、四番目に登壇されたプロの英語翻訳者の方は、翻訳業に携わられる一方で、金融・経済を専門に英文ライティング研修もされているそうですが、霞が関のエリート役人相手に英文ライティングを教えることもあるそうです。その際に、彼らが全く英文が書けないことに驚かれたという話をされましたが、その話に私もすっかり驚いてしまいました。生き馬の目を抜くが如き金融の世界で、中央の役人がそういうあり様では日本の勝ち目などあるはずもありませんよね。

 ・・・と、手前の身上をすっかり棚に上げて(英文ライティングは大嫌い!)、好き勝手に一昨日の感想を記しました。とっかかり、先ずは自己を発信する癖だけでも意識してつけないと・・・と真面目に思った次第です。つねに自己発信型+超ポジティヴ志向のアレックス氏を見習いつつ。 

 

※全くの蛇足ですが、スペイン本国仕込みのスペイン語と、南米はパラグアイで学んだスペイン語、それに中米キューバスペイン語の違いというのは、NHKスペイン語講座歴約2年の当方が聞いていても、こんなふうに違うんだ、、、くらいの違いが判別でき、グローバル化(その結果としてのローカル化)した言語のおもしろさを感じさせられた時間でもありました。