悠々と急ぐために・・・

“Festina Lente”

「いい演奏」ってなに?

「いい演奏」と、そうじゃない演奏を区別する境界線というのは、定義として明確化することはとても難しいけれど、アウトプット、つまり結果としての演奏を聴けば、決定的に断言できるというところがなかなかおもしろいなと思う。 

唐突にスミマセン。

先週末、かみさんたちが音大時代の仲間たち(同窓生)と年一回、20年以上も続けているピアノ・コンサートがあった。みなさんの演奏を聴きながら漠然と感じたところがあり、さらにコンサート終了後の打上げの際に内輪で交わした雑談からも少し考えた延長戦、ないしは消化試合として、以下書き連ねます。 

いい演奏かどうかに話を戻すと、こういうことはおそらく、単に演奏に限ったことではなくて、もっと日常的なこと、例えば日々の仕事でも、あるいはもっと俗に人間でも、すべてに当てはまることと見受けられるように思う。

 つまり、

「今日はいい仕事をしたな」

とか、

「あいつはホントにいいヤツだよな」

とかいう風な使われ方をしますが、「いい演奏」も基本的にこれらと同類だと思う。

それは音楽学的に、あるいは美学的見地から、厳密に分析して「いい演奏」かどうかを判断しているわけじゃなくて、われわれは無垢な耳で純粋に聴いて、ほぼ直感的にそう判断しているということでしょう。

 小林秀雄はかつて『「美しい花」は存在するが、「花の美しさ」というものは存在しない』みたいなことをとこかで書いていましたが、これとちょっと似ているかもしれない。

「いい演奏」は実感としてすぐに分かっても、その演奏の「よさ」を定義することはおそらくナンセンス、というか無粋にすらに感じます。

 ところで、「いい仕事」というのは大抵、一生懸命、ヤル気120%で仕上げた仕事のことでしょう。で、これと正反対の「ヤル気のない仕事」というのもこれまたまた明快で、例えば先日も国会から中継されていた「加計学園」をめぐる答弁の類。みなさまの税金を給与に充てているハズの連中がよりにもよって、意味不明の答弁を繰り返す光景をなんと評したらいいか。いい仕事かどうか以前の、レベルの低い話でしょう。

 ――「いい人」というのは通常は「気の弱い人」の意味で使われているが、アイツは本当の意味で「いいヤツ」だった――

これはたしか、ジョージ・ハリスンが亡くなった時にキース・リチャーズが彼を評して放った言葉だったと記憶している(ちょっと怪しい)。当時雑誌(たしか『Switch』)でこれを読んだ際は、「ジョージって本当にいい人だったんだな」と心から思ったものだが、こういう意味での(つまり真の意味での)「いい人」というのはなぜか私の身の周りに多く見受けられるから、これは純粋に神さまに感謝しなければいないなと思います。

で、再び「いい演奏」です。

たらたらと書き連ねましたが、ひと口で言うと「ヤル気のある演奏」のこととなるか。

ヤル気があるかないかについて、われわれは意外に敏感に聴き分けているものと思われる。これはちょうど、たとい初対面でも、あるいはすれ違いざまでも、相手が美人かどうか、イケメンかどうか、瞬時にして見分けているのと似ていないか。

 演奏について言えば、上手いか、下手か、が問題なのではない。いくら上手くても(プロでも)ヤル気のない演奏(惰性で弾いているとか)というのはあちこちで見受けられると思うから。反対に、技術的には劣っていてもヤル気のある演奏というのは見ていてとても気持がいいと感じるものでしょう。いい指揮者は、楽団がプロでもアマチュアでも、必ず楽団員の、特に後ろの方の人たちのヤル気を引き出している。それができるかどうかがつまり、いい指揮者かどうかの境界線だと思う。

上手いか、下手か、が問題なのではない。問題は、本人にいくらヤル気があっても、あるいはヤル気があると思い込んでいても、それが全く空回りしているケースです。見ていて痛々しくすら感じられる。やり方が拙いか、あるいは目指している目標、方向性自体にそもそも問題があるということだと思うが、さてこれをどうしたらいいのか。先ずは自分が今現在処している現実に気付くこと、つまりやり方・方向性が間違っているのだという認識を持たせる必要があるが、果たしてこの気付き、認識を与えるにはどうしたらよいか・・・これはやはり難問でしょうね。

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「医療観光」考、もしくはあるべき日中関係、あるべき「日本の医」について

前略 久し振りのブログ更新。いくらなんでも1年に1回はヤバいよなあとか思いつつ以下、例のとおり自由に記します――

 

 爆買い現象の波及効果でしょうか、最近また中国から医療や健診でのツアー問合せが多くなってきました。そこで某大学病院付属の健診センターに旧知のご担当者を訪問し、久し振りにこのテーマで興味深くお話を伺いました。

話を伺いながら、医療観光のみならず、日中関係や日本の医の問題等、いろいろ考えさせられたので、今回重い筆を取った次第です。

 

先ずこのテーマ、つまり「医療観光」、あるいは海外からの患者受入れという課題を突きつめて考えると、行きつく先は必ず、日本の医療のよくも悪くも独自性や長年来の問題に帰結するものと改めて感じました。

お上があれだけ大々的に旗揚げして(民主党~安部政権)、予算も付けて、「日本の医」を売りにした医療ツーリズムを標榜しても、一向にインバウンドの大きな流れ、つまりビジネスとしての市場形成につながらない。

お上にしたところでもちろん、省庁間で温度差があるのは当然(経産+国交は大賛成、厚労+裏でつながる日医は大反対)にしても、それ以前に「医療は果たしてサービス(ビジネス)か?」という古典的な課題があります。

TPPにおける聖域設定の問題もたぶん同類の根拠から出ているもので、医療のほか農業や教育を一般の産業と同じ扱いとして同列視してしまうことで、日本の国土や生命が脅かされる危険性はないか?という課題設定になります。「今やそんなの当たり前で全て産業にすべきだ」派と、「いやいや、断じて産業であってはならぬ」派の抗争という図です。

一時は猫も杓子もグローバル化を叫んでいたのが、ピケティ先生の論にあるような小さな政府=ローカル志向が最近は目立つように感じます。(行きすぎたローカル主義がトランプ・極右現象では。)

 話を戻して、今回いろいろ考えたことというのは、上記事情を背景として、「自分がこのテーマ(海外患者受入れ)に取り組んでいるモチベーションは果たしてなんだろう?」ということです。

会社を立ち上げて、医者や看護師の人材事業を始めた頃、営業先の病院で「日本の医療、大丈夫かしら?」としばしば感じたことがあります。

病院による組織、カラーの違いにもよりますが、こういう病院にはかかりたくないなと思わされるような病院がなぜ普通に続けられるか?(都心でも郊外でも、けっこう少なくない。)

医師は今後余っていくはずと言われ続けながら、医師不足あるいは過労死問題はやはりなくならず(不足ではなくて「偏在」だとしても)、看護師以下人材は慢性的不足状態が一向に改善しないのはなぜか?

それよりなにより、国家の赤字予算で運営しているがごとき国民皆保険制度をどうするか?よく皆保険制度はいつまでもつか?みたいなことが論じられますが、毎年膨大な赤字国債を刷ってなんとかかとか運営しているわけですから、私から見ればとっくに破たんしているとしか思えません。

以上から、守るものは守るという前提で、ある程度は医の活性化(イノベーション)を図っていかないと危ないのではないか?「日本式医療」を日本の財産として、技術・人材・制度も含めて、売りにすべきは売り、改めるべきは改めるという姿勢でやっていかないと明るい医の未来はないのではないか?

――とまあ、そうした日本の医療の課題はもちろんあるとしても、最も強いモチベーションは中国の医療事情にあります。

日本は普通に皆保険制度(+高額医療保険制度)があるから、たとえば風邪をひいたくらいでも皆なにも考えずに病院に行くし(これも大きな問題です)、がんが見つかってもやはり普通に治療なり手術なりの処置を施しますが、お隣の中国では少し前まで皆保険制度がなかった。(正確には、古き良き共産党時代はあったのが、改革開放政策以降は独立採算の勧めでなくなりました。鄧小平の負の遺産です。)

ゆえに、いわゆる中国の農村部での話ですが、農民ががんと診断されて自殺するという事件が起こったりします。一般の農民にとって100万円もする治療費というのはいかに酷な現実か・・・始めてこんなニュースに触れた際に、単純にこれはマズイと思った。なぜこんなことが起こるのか? 

ちなみに、中国での皆保険制度は胡錦濤さんの時にようやっと制度化され(オバマ・ケアのごとく)、しかし諸問題もあってあまり普及しなかったのが(これもオバマ・ケアのごとく)、習近平さんになってようやく国の隅々まで行きわたるようになったと聞いています。(ただし要検証。)

しかしこれのどこが「社会主義」なんだと日本人ならみな思いますね。

 さておき、中国というのは好むと好まざると、すぐお隣の国です。しかも今後グローバルでの比重が増していき、清の最大勢力図みたいになるかどうかはさておき、日本は正面からあい対していく必要がある。米国や欧州は早くからそう感じているから少しずつ外交政策をシフトしているけど(AIIBへの加盟がいい例です)、日本は潜在的に中国蔑視があるせいだかなんだか、いまだに中国破たん論が大好きです。(特にメディアの罪が大きい。)

 余談ばかり並べてきましたが、要するにあるべき日中関係はなにか?ということです。

中国人の爆買い現象の背景にあるのは、もちろん正規商品を総じて安く、安心して買えるからというモノの力も大きいですが、それよりなにより、実際に日本に来て、日本流のサービスに直に触れて、日本の社会・習慣・システムの中で生活して始めて、自分たちの社会のとギャップの大きさ、日本がいかに安全で住みやすく、みな真面目で騙されこともなく、ラッシュアワーの混雑する中でも整然と通勤する姿等々を目にして、みなで思わずSNS(微信の威力がすごい!)でもって写真や動画やコメントを発信し、拡散したがためです。 

そんな日本の社会と比較するに、自分たちの社会はなぜあんなに住みにくくなったしまったのか・・・と彼らが本気で考えたとしたら、あるべき日中関係への一歩でしょう。是非謙虚に日本を学んでほしい。これは中国語で言う「学日本」です。(その逆もまた真なり、ですが長くなるので今日は触れません。)

そして学ぶべき項目のひとつとして「日本の医」があるはずです。多くの医師や看護師たちは自身の職務に対して誇りと時に犠牲の精神をもって患者と向き合っている。しかも設備を含めた日本の医療技術は世界でも最高レベルです。

医療人材の不足と現場の疲弊、混合診療の問題等々、確かに免れません。が、海外から患者を受入れるということはすなわち、海外から医療人材を受け入れる道も今以上に開きやすくなるはずです。さらに海外からの患者には適切なコストを反映させた料金体系を適用すべきでしょう。

日本の医はもっと開かれて然るべきと思いますが、いかがでしょうか?

 

原発考 ~原子力委員会メルマガへのコメント

 月に二度ほど配信されてくる「内閣府 原子力委員会」のメルマガの前回配信分コラム記事にしばらく考えさせられました。こういう組織の人がこの程度の思考(の浅さ)でいいのか。あるいは当方の読解力の問題か・・・

 実はよく整理しきれていないのですが、先方にそのままコメントして送信したついでに、本ブログにも掲載します。

 コラム記事というのは、下記サイトの「科学技術利用における未知の領域」。

第173号 原子力委員会メールマガジン−原子力委員会

 ※以下、当方コメント。

 いつもメルマガ配信いただき、ありがとうございます。

 今号の岡委員のコラムに違和感が残りました。通常なら読み飛ばして終わるところですが、なぜか引っかかったため、以下少し整理してみます。自分でも尽き詰めていないためうまく伝わるかどうか、、、どうかご了承ください。

 

 率直な質問ですが、このコラムの趣旨は何でしょうか?

 いささか乱暴にまとめてしまうと、

 「科学技術の進歩にはリスクはつきものだ。リスクばかり強調して風評被害に及ぶ愚は避けたいものだ」

 みたいになりますが(それは最初に一読した際の印象でもありますが)、この分野の第一人者であられるお方がそのような単純、短絡的な論旨でもって本稿のような場に(たとえ読みやすいコラム形式であっても)寄稿するということは考えにくいと感じ、これが「違和感」の原因じゃないかと、何度か読み返してみてようやく腑に落ちました。

 

 はじめに断っておきますが、私自身は原発反対論者でも原発推進論者でもありません。厳密にいえば「気持の上では反対したい論者、でも現実を考えると・・・」という風な、おそらくは世間一般のマジョリティに属するのではないかと思います。ゆえに、この分野のド素人として、本当は原発をどうすべきなのか、より多くの意見、特に貴委員会のような専門家の方々のご意見を貴重な判断材料として日々切実に拝聴し、受け止めるようこころがけているところです。

 

 論を戻しますと、科学技術の進歩に多くのリスクが伴うことはだれでも理解していることと思います。リスクを取らなければなにごとも成し遂げられないという一般真理もありますが、ましてや科学技術をや、といったところで充分理解できることです。ただしここでの問題は、すでに起こってしまった福島の事故が未だ明確な解決策が見えていない現状にあって(もし知らないうちに明確な解決策がすでに見えているということであればどうかご教示ください)、事故の大元である火種をしっかり消すことなく、既存の施設を稼働させる、あるいはシステムを丸ごと他国に売込みに行く、その間のつじつまがどう考えてもド素人の理解を超えている、ということです。

 

 やや論旨が外れたように思いますので再度戻しますと、ここで大切なことは、だれでも理解している科学技術の進歩の過程で生じるリスクというのを、いかに客観的に評価するか、その具体的な根拠はなにか、にあると思います。というのも、貴委員会のレゾン・デトルというのは、この度の事故、あるいは原発そのものの技術的な評価を、如何に科学的・客観的に下し、それを一般の人たちにわかりやすく伝えていくか、更にそういった一連の作業を通じて、今後の原発のあり方、引いては国のエネルギー政策に適切な方針を示していくことと思うからです。

 例えば、原発推進論者のリスク的根拠として、自動車の危険性がしばしば引き合いに出されます。自動車事故による死亡や障害というリスクの方が原発事故による被害リスクよりもはるかにリスク性が高いと。これに賛成するかしないかは別の話として、目に見えにくいリスクというものを数値化して説明している点は評価できると思います。同様に、原発のリスク性についても客観的な指標で示し、更に万一事故が起こった際にはどういった手段で対応するか、ここがしっかり説明できていないと反対論者は納得しないと思います。

 

 言わずと知れたことではありますが、原発反対論者には文学者を始めとする文化人が多いですね。例えば大江健三郎さん。拠り所としている論点が明確だし、いかにも説得力があります。彼らはそもそもものを書くことが商売ですから文章のうまさということも大きいのでしょうが、それ以前に論拠が明確で、ここが肝要です。つい先日は村上春樹さんがご自身のサイトで明確な原発反対論を掲載しました。彼は元々こういったことにあまり口をはさまない、いわゆる「デタッチメント」を信条にしているところがあっただけに、影響力も大きいと思います。

http://www.welluneednt.com/entry/2015/04/09/073000

 

 一方の原発推進論者としては、例えば寺島実郎さんでしょうか(彼は怒るかもしれませんけど)。つい先日の朝日新聞でも「原発反対論者は代替エネルギーでもなんとかできると安易に言っているが、核の傘からはずれる覚悟がしっかりできているのか」と実のある論拠を提示されていました。彼は別の著書でも「気持ちとしては全廃したい。ただし安全保障上の理由から、一部だけでも残さないと日本の国益に反する」というような意見を示され(とても勇気のいることだと思います)、原発を停止した場合のリスクについて明確に説明されています。

 なにごとも、ことを進める場合には進めた場合のリスクは当然考えるべきですが、なにごとも進めない場合のリスクについても同時に考えるべきであって、ここが原発反対論者が決定的に弱い点ではないでしょうか。ドイツを例に持ち出しますと、確かにドイツは原発全廃を早々と決めましたし、先般来日したメルケルさんは安部さんにも全廃を勧めたようです。詳しく情報を追いかけていないのでこれも遠目に見ていての印象にすぎませんが、ドイツの場合は原発停止後のエネルギー政策も、安全保障上の問題も、全てクリアしているのではないか、そういうイメージです。これには地政学的な理由が大きく、エネルギーを売りたい国(供給元)がすぐ隣にあり、EUを盾にした安保体制もしっかり盤石である。そういう恵まれた国が、四方を海に囲まれ、すぐ目の先に北朝鮮があり、その後ろには中国が控え、それでも「核の傘」の下で70年間平和外交の道を歩んできた東の果ての島国に対して、随分安易なことを言うなあと思ったものです。核の傘から抜けた際のリスクを、原発反対論者はどこまで真剣に考えているのか。日本が世界に誇る原発の技術開発分野において、全てを放棄してまで危険に身をさらすような覚悟をみなで共有しているか。これは少なくとも、現況の東アジア外交、日中・日韓関係にあってはとても厳しい選択肢と感じてしまいます。

(エネルギー政策としての核と、安全保障上の核は別に考慮すべき、とド素人的には考えてしまいがちですが、これがいかに非現実的かについても寺島さんが説明されています。)

 

 再度、貴委員会に期待することというのは、今後原発を推し進めるにしろ、停止にするにしろ、ともかく明確な根拠、判断材料をできる限り示してほしいということです。漠然とリスクはつきものだと言うのではなく、推し進める場合のリスクも、止めてしまった場合のリスクも、できる限り客観的に説明していただきたい。その上で、国中で国民一人ひとりが検討、議論し、最終的には国会なり国民投票なりで結論を出すのが王道と思います。

 以上、案の定長くなってしまいすみません。

日中関係考(2) 「時代と人と運命と」

微力ながら応援している舞台女優の神田さち子さんの中国残留婦人の一人芝居「帰ってきたおばあさん」について、中国の映画監督(兼、北京電影学院教授)、王乃真(ワン・ナイジャン)先生がドキュメンタリー映画を撮影しているお話は、かねてから神田さんより伺っていました。この度、撮影の一環で残留婦人へのインタビュー他、取材のため来日中の王先生と先日ようやくお会いすることができ、文革時代のお話から現在進行中の撮影まで、話題の尽きないあっという間の2時間をご一緒させていただきました。(以下、文責は全て栃原)

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話題が尽きないというのは誇張でなくてそのとおりですから、ここでは印象に残ったことのみに絞ります。先ず先生がものごころついた頃というのが正に文化大革命の始まりの年(1966年)で、先生はちょうど10才。その年になんと、大学の先生だった母親が目の前で惨殺された話。(しばし絶句、、、)そこから長い下放が始まり、1978年にやっと大学が再開して(この間中国の全ての大学が休学状態だったが、思えば教師=知識階級がみな叩かれるからそういうことになりますね)、晴れて北京電影学院に入学した際には、実に下は16才、上は38才までが一度に入学、復学したそうです。(一体何人の学生が大学に押し寄せたのだろう?それに教師はどれくらい生き残ったのか?)あの張芸謀(ジャン・イーモウ)は王先生より5才年長だったが、この年に一緒に入学したとのこと(年齢が抵触したようですけど)。彼も当然のことながら文革の被害者でした。

それから話を端折って、神田さんとの北京での出会いと残留婦人の方々との交流。現在進行中の撮影の課題。「とにかく時間が大事かつ喫緊。すでに90代の方もいる残留婦人が存命のうちに作品を仕上げないといけないから。編集に最低3カ月はかかるから、来年夏のリリースから逆算すると来年の2月には撮影を終わらせないと。今300時間分撮り終えたが、まだ3分の2くらいかしら。そしてなにより、資金をどう集めるか・・・」云々。

先生によれば、「生まれながらにして悪という人はいない。ただ三つの真実があるのみ:特殊的時代、特殊的人群、特別的命運ーーつまり、特別な時代に生まれ、そこには特別な人々がいて彼らと同時代を生き、つまりは特別な運命を与えられた、ただそれだけの話だ」となります。

文革にしろ、日中戦争にしろ、よほど権力のある人でない限りは不可抗力であり、下々の民にとってはひたすら流されるままでしょう。そこに跋扈する紅衛兵や旧帝国陸軍の軍人にしたところで、時代の落し子にすぎない。そして、そういう時代に生まれ落ちてきたことも、単にそれがその人の運命だということにすぎない。

日中関係がかくある中、中国人である先生がどうして、日本人=加害者ではなく圧倒的な被害者目線で書かれた残留婦人の物語を追いかけ、そこに拘るのか、その理由もここにあります。

「人は時代に翻弄され続けてきた。昔も今も。だからどんな時代にあっても、史実や現実を正確に見つめ、汲み取り、受け入れなければいけない。特に今の時代は。」

今回王先生にお会いするにあたり、一番お聞きしたかった疑問もすっきり晴れた気がしました。

帰り際、今回北京から先生に同伴した秘書役で北京電影学院研究生の小林千恵さんに「来年2月までに撮影は終わりますか?」とこっそり聞くと、「いやあ、このペースでは無理でしょうねえ」とあっさり言われてしまいました。終戦から70周年を迎える2015年という年と、なにより残留婦人の方々へのオマージュ性を考慮すると、絶対に間に合ってほしいーーそう願わずにはいられないと思いつつ、新宿のとある喫茶店を後にしました。

 

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王乃真先生(中央)、神田さち子さん(先生の右)、秘書役の小林千恵さん(最右)と。

 

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上は昨年の六本木公演のチラシです。

今年2014年は、横浜の「神奈川県立青少年センターホール」にて、11月22日(土)午後3時開演。

「先ずは発信ありき」と言いますが・・・  「第12回国際コミュニケーションマネジメント研究会」より

 一昨日、「特定非営利活動法人 グローバル・ヒューマン・イノベーション協会」主催の掲題研究会に参加。

http://www.ghia.or.jp/icmp/162.html

  プログラムをご覧のとおり今回は一貫したテーマがないのかと思っていたら、一本ピンと貫くものがありました。コミュニケーションにおける「発信力」についてです。

 日本人につきまとう「プレゼンに弱い」というステレオタイプを突き詰めていくと、いわゆるプレゼンという手段・ツールが弱いというよりも、それ以前に「発信する力そのものが弱い」となるかと思います。裏を返すと、自己、つまり自分の意志や考え、主義主張をどんな手を使ってでもいいから先ず発信することが肝要になるでしょう。 

  二番目に登壇された本名先生(本名信行・青山学院大学名誉教授)は、沖縄県で進められている「英語立県」構想にSWOT分析を実施され、その結果「W=弱み」として、

・未知の分野の開拓:改革とカイゼン→「発信教育」の具体的認識

を抽出されました。具体的な対策として、「発信力増進実行委員会」なる組織の設立を提唱すると同時に、実際の英語教育の現場でも「自分」のことを話す等、「発信」を意識した授業を奨励されていますが、日本が今後進むべきお手本になるようなモデルケースを、沖縄という地で是非実現してほしいものと思います。 

 もうひとつ興味深かったのが、荒川先生(荒川洋平・東京外国語大学教授)のお話にあった「英和辞書事件?」で、これは斬新の域を飛び越えて意表を突かれました。日本人が英語を始めて習う場合に買う辞書というのは、普通は先ず「英和辞書」ですよね。一緒に「和英辞書」を用意することはあるにしても、それは「英和」がある前提でのことでしょう。ところがですね、例えば英国で始めて日本語を学ぶ際に買う辞書は「和英」ではなく「英和」だそうです。なぜなら「自分が言いたいことを言うために先ず必要なツールだから」とのこと。なるほど確かに・・・ではありますが、日本人の発想ではなかなかこうはならないのではないでしょうか。

 話がいきなり飛びますが、日曜日だった昨日、妻の元生徒(妻=ピアノの教師です)が2人、久し振りに拙宅に遊びに来ました。一人はバルセロナに住んで6年目になる女性であり、もう一人はJICAの派遣でパラグアイ2年間滞在して昨年帰国した男性。どちらもスペイン語圏だというので、私のキューバ人の友人(アレックスといいます)にも声を掛けたところ、日本人の奥さんを連れて(ついでにフランスワインも携えて)やってきました。そこでこの話を披露したところ、日本人たちからは「ホーッ」と声が上がったのですが、キューバ人は「それは当り前の話や。自分の言いたいことが言えなくてどうするね」みたいな反応でした。

 なかなか深いですね・・・。この話はコミュニケーション論に止まらず、比較文化論、乃至は日本人論にもつながるかと思います。

 話が飛んで私の経験論になりますが、例えば仕事で上海に赴任し、ローカルスタッフなんかと接していてて驚くことは、まあ「夜空に輝く星の如し」で多々ありますが、5時になると仕事が残っていようがいまいがスッといなくなる(帰宅してしまう)ローカルスタッフとそれに驚く(呆れる)日本人、というのがよく見る光景です。ではさて、これを世界的視野からみた場合、「決まりは決まりだから仕事が残っていようがいまいが時間が来ればさっさと帰る方がグローバルスタンダードだ」なのか、それとも、「仕事が残っている以上は黙って残業をするのがプロの仕事人だ」なのか。私見では前者が世界のマジョリティーだと思います。少なくともそういう目を持ってローカル人材と接しマネジメントしていかないと、特に日本人が海外で勝つことは厳しいと思いますね。

 「先ずは発信ありき」という発想も似たところがある。荒川先生はお話の中で、大村益次郎や「蕃書調所」まで遡ってお話をされていましたが、おそらくその頃から早くも、日本人は外国語といえば先ず調べる対象だったのでしょう。彼我に圧倒的な文化的格差があり、その格差を如何に迅速に埋めるか(つまり西洋に追いつくこと)が喫緊の課題だった当時であれば、これはまあ仕方のないことと想像がつきます。「発信すべき自己」というのはナンセンスですから。ただし、幕末当時の時代背景と、グローバル化真っ只中の現在の世の中を同列で考えていては、日本の生き残りも先ず危機的状態に陥るでしょう。

 それからもう一つ感じたことは、「先ずは発信ありき」と言うからには、前提として「発信すべき自己」がないと成り立たないということ。これは教育面からみれば、いわゆるリベラル・アーツが有効でしょうし、文科省は全く無関心かもしれませんが、日本の伝統芸能、例えば文楽や歌舞伎、書や美術、あるいは武道でもいいから、どれか一項目をみっちり教え込むというのも「発信すべき自己」を養う上で大変効力があると思うのですが・・・これはちょっと空想論に過ぎるかしら? 

文科省は目下、リベラル・アーツ、特に文系にも全く無関心というか冷酷のように見えますけど。)

 一昨日の研究会に話を戻すと、四番目に登壇されたプロの英語翻訳者の方は、翻訳業に携わられる一方で、金融・経済を専門に英文ライティング研修もされているそうですが、霞が関のエリート役人相手に英文ライティングを教えることもあるそうです。その際に、彼らが全く英文が書けないことに驚かれたという話をされましたが、その話に私もすっかり驚いてしまいました。生き馬の目を抜くが如き金融の世界で、中央の役人がそういうあり様では日本の勝ち目などあるはずもありませんよね。

 ・・・と、手前の身上をすっかり棚に上げて(英文ライティングは大嫌い!)、好き勝手に一昨日の感想を記しました。とっかかり、先ずは自己を発信する癖だけでも意識してつけないと・・・と真面目に思った次第です。つねに自己発信型+超ポジティヴ志向のアレックス氏を見習いつつ。 

 

※全くの蛇足ですが、スペイン本国仕込みのスペイン語と、南米はパラグアイで学んだスペイン語、それに中米キューバスペイン語の違いというのは、NHKスペイン語講座歴約2年の当方が聞いていても、こんなふうに違うんだ、、、くらいの違いが判別でき、グローバル化(その結果としてのローカル化)した言語のおもしろさを感じさせられた時間でもありました。