悠々と急ぐために・・・

“Festina Lente”

日中関係考

 中国ビジネスでは大変著名なさる御仁と縁あってランチをとりながら、日中関係の歴史から現在の日本、中国の立ち位置、あるいは広く国際情勢まで、ご意見を賜わりました。

 この御仁(仮に某先生と呼ばせていただきます)、総合商社にて中国総代表を長年務められ(中国との接点は1963年!からだそうですから筋金入りです)、現在は当然引退されていますが、中国関連の某セミナーで席が私と前後になり、実は同じ境遇がちょうど3年前の全く別の会合でも起こったものですから、「これはきっと赤い糸で結ばれているに違いない」などと勝手に決めつけ、早速この某先生に「ランチでもしながら中国話をお聞かせいただけませんか」とお誘いしたところ、うまく快諾いただき、昨日の昼、銀座はとあるイタリアンレストランで実現したというのがことの経緯です。予想はしておりましたが、お伺いした話がとても貴重かつおもしろく、一人で占有しておくにはもったいないなあと思い、ブログの形にした次第。以下少し長くなりますが、当方の理解した範囲で自由に記します。(故に文責は全て栃原に帰します。)

 

1.日中関係、戦後処理問題について

 1972年の日中国交正常化にて、確かに中国は戦後の賠償権を全て放棄し(日本が台湾と手を切る等いくつか条件はありましたが)、国対国の問題として形式上は解決した。その際に持ち出した理論(と言いますかちょっと屁理屈でもあるかしら?)はあまりに有名なもので、それは「日中戦争は日本の一部の軍事勢力が引き起したものであって、大多数の日本国民は中国人民と同様被害者である」というもの。ただしこれは、毛沢東周恩来という当時の絶対権力の存在が大前提にあったわけで、下々の気持ちと言いますか国民感情としては全くしっくりきているはずがない。故に、毛やら周やら、あるいはその後の鄧小平等、カリスマ的権力者が不在になった今、尖閣問題を端緒としてそれまで眠っていた(塩漬けにされていた)国民感情が湧き起こるのは無理からぬこと。そもそも、日中関係というのはいわば「ガラス細工」みたいなもので、相当気を遣ってケアしてあげないと壊れてしまう(英語で言うfragileですね)。というような事情を今の日本の首相以下政治家たちはどこまで認識しているのか。(いや全く認識していない。よって靖国参拝のようなことも平気でやる。)

 大事なことなのでもう一度繰り返しますが、日中間の戦後処理問題は、形式上は確かに終わったかもしれないが、中国人の「心の問題」としては未解決だというのが正確なところなんです。日本人はそこを理解していない。(あるいは理解できない。ただし悪気はないかも?まあこれはこれで問題ですが。)

 これは当方(栃原)の勝手な想像ですが、従来の自民党政権というのは、おおよそこのあたりの認識は持っていた。あるいは持っている人が結構いて(外務省にチャイナ・スクールがあるように)、アンダーグラウンドで中国とのパイプ作りをしっかり行ってきた(上述の言葉で言うと気を遣ってケアしてきた)。それが民主党政権でほぼ壊滅状態になり(しかし江田さんやら海江田さんやらはなにをしていたのか?)、安部政権になると貴重な中国理解派議員たちはおそらく活躍の場がなくなっているのでは。「集団的自衛権」が自民党内部でもすんなり通らない所以であります。

 

2.中国の現体制/習近平について

 お話はいろいろありましたが、いきなり習近平という人物に飛びます。

 某先生、習さんとはかつて4度お会いされたそうで、「どんな人ですか?」と率直にお聞きしたところ、「あれはたいした男だ」とのこと。とにかく頭がいい(例えば話をするのに先ずメモを見ない)、人間の質・レベルが違う(誰と比べて、とは敢えて言いません)、云々。彼の大事な経歴として、文革中に長期間下放したこと(修羅場を経験したこと)が大きい。例えば、江沢民胡錦濤は鄧小平という後ろ盾があって(あるいは遺言により)トップに立ったが、習近平は実力のみで這い上がった。そういう意味では、後の歴史家は習を毛沢東、鄧小平以来の大政治家と評するかもしれない、それくらいの人物だそうです。(ちなみに、胡錦濤や、あるいは今の李克強は所詮培養液育ち、習のような「修羅場」の経験がないからなあ・・・とのこと。)

 であるにもかかわらず、日本のマスコミの習近平に対する評価は冷たい。これも当方想像ですが、おそらく今の右寄り・対中強硬の日本社会に迎合しているように映る。(反対に、安倍に対する評価も同じ土壌からか、かなり手ぬるいように感じます。)これではますます反中感情が煽られてしまいますね・・・

 

3.日本の立ち位置

 アベノミクスの成功?を背景に、世論もしっかり味方につけて、「美しい日本」だか「強い日本」だか分からんが、やりたい放題やっている。仮にアベノミクスが成功しているとして、それは自分の手柄と思っているようだがそんなはずはないし(仕事でもなんでも有能な人ほど自分の功績に無頓着ですよね)、そもそも「第三の矢」なんて成功してないじゃないか。それが国民にもだんだん分かってくるから、まあこの政権も持って年内まででしょう。(とするとやはり2年しか持たないことになりますか・・・)

 安倍さんがいけないのは、中国を敵に回しただけでなく、コトが起こった場合に当てにしている米国をも敵に回していて、結果肝心のオバマも手を焼く羽目になる。なぜかというと、戦後体制をこしらえたのは他ならぬ米国だが、その戦後枠組みの正当性を覆すが如き言動を平気でとるし、中・韓を逆立てする靖国参拝すら米国の助言を無視して実行する。結果として国際的孤立を招き、つまりは習近平のみならず、オバマからも相手にされなくなる。(すでになっているそうですよ。)これじゃ国民が不幸だよ・・・

 某先生の見方はおおよそ以上ですが、昨晩テレビをつけると、ちょうど安倍さんが記者会見していました。相変わらず「強い日本」を強調していましたが、この人は「強い」とか「美しい」とかいう言葉を好んで使う傾向がありますが、完全に意味を取り違えているのだと思います。

 仮に本当の意味で「強い日本」が実現したとしたら、それは一体どういう国なのかといつも思います。中国や北朝鮮がおかしな行動に出た際に、米国の軍事力をうまく利用しつつ、自前の自衛隊を最大限活用する、そんな国なのか。そのために憲法が足枷になりそうだということであれば今のうちに改正法案を通しておくことなのか。あるいは、中国が軍事費を2倍にしたら、こちらも負けじと23倍にして対抗することなのか・・・これではまるで目の先3メートルしか見ていないことになりかねない。

 仮にもし、真に強い国があるとすれば、「この国に住む人たちはとても大事な人たちだから絶対に侵略してはいけないし侵略することは自国の恥である」くらいなことを敵に思わせられる、それくらい度量の大きな国でしょう。正に戦わずして勝つということ。でもそんなことは今の国際情勢に照らせば先ず不可能なはず。だったらそもそもこんな子供だましなフレーズは濫用しないことです。もっと別の表現でいくらでもあるでしょうから。そういう意味でも思慮がなさすぎと言いますか、浅はかこの上ないと言いますか・・・

 

 「この国のかたち」を書いた司馬遼太郎は、明治期を日本の頂点と見て、例えばそれは「坂の上の雲」にも反映されますが、ただしそれはまた右翼思想とかいたずらなナショナリズムなどとは本質的に異なるのであって、そこに登場する人物たちの魂の真摯さ、思慮の深さが生半可ではない点に先ず思いを致すべきです。

 その司馬さんが小学校6年生の教科書向けに書き下ろした「21世紀に生きる君たちへ」の中で、こんなことを書いています。(少し長いですが平易な文章ですのでどうかご寛恕を。)

 

・・・

(前略)

 私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。斜めの画がたがいに支え合って、構成されているのである。 
 そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
 原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社会になり。今は、国家と世界という社会をつくりたがいに助け合いながら生きているのである。
 自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。


 このため、助けあう、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
 助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。
 他人の痛みを感じることと言ってもいい。
 やさしさと言いかえてもいい。
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」
 みな似たようなことばである。
 この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
 根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。
 その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、その都度自分中でつくりあげていきさえすればいい。
 この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。

 君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるのにちがいない。

・・・

(後略)

――司馬遼太郎21世紀に生きるきみたちへ」より

  

  同じ理想論を語るなら「美しい」やら「強い」やらといういかにも大衆迎合の絞りきり型ではなく、「いたわり」、「他人の痛みを感じる」、あるいは「おもいやり」の方がどれだけ血が通っているか。ましてや日本という国は戦後、東南アジアや中東・アラブや、あるいはアフリカにおいても、多くの国際援助活動を通してさまざまなプラントやらハコモノやらインフラやらを構築し、同時に現地の人間まで育成し、地道ながらもコツコツと親日感情を醸成してきた実績があるのです。だとすれば、まんざら理想論というわけでもないと思うのですが。